2001年秋 大学生活の後悔

内定獲得後は、最低取得単位数さえ取ってしまえば来春には大学を卒業して晴れて本格的な社会人としてのスタートだ。卒業見込みとしては特に危険水域でもなかったが、バイトばかりの生活に嫌気が差しており、思う存分学術研究ができる大学という最高学府に属し4年という期間がありながらも、得られたであろうそのわずか数%程度の微々たる学業しか修めることができなかった。

いや、実質的には大学に入るまでもないくらいの知識に過ぎない。私の人生にとって最も後悔していることの一つであり、それに気付くことがあまりにも遅すぎた感がある。就職活動が終わり、卒業に必要な単位は何も一日中学校にいなくてはならないほど多くもない。私は空いた時間や、興味のある授業があると履修が必要のない科目でも授業に出ることにした。

学者寄りの研究マニアな教授ばかりではなく、一般人の感覚で噛み砕いて教える学生寄りの先生も少なからず存在していた。過去の世界経済史であったり、経済学の法則であったり、過去に存在した偉人や現役で活躍している経済学者の論理などなど。経済学は学問とはいえ、個々の人々が社会において無意識に自分の利益や幸福のために行っている普遍的な社会活動をこんなにも情熱的に、執念を持って時には高等な数学やら大掛かりな実験などで立証しようとしているその実直な学問にますます魅力を感じていった。

早く社会人になって勉強したことが確かなのかどうか、自分の目で見てみたい。学生の身でありながら社会人に対する憧れは日に日に強まっていき、同年代の連中や学生仲間とではくだらない幼稚な話題しか出てこないし、学生という狭い範囲では実際に生の実体経済に触れることはできない。どうすればいいのだろうか、この極めて素朴な欲求を解決したいがために、ビジネス誌を定期購読したり、面識もない教授にメールを送ったりしたこともあった。時には一度きりの外部講師の授業を受けた後につらつらと感想を書き、その後政府の年金機関の専門家としての彼の座談会に呼ばれ、官僚が集まるような場で学生として意見を述べて珍しがられたりもした。井の中の蛙である自分を自覚し、とにかくありとあらゆる知識を吸収したいと思っていた。

学生生活後期になり、勉強に“やる気”を伴なわずに過ごした期間を取り戻すことは出来ないにしろ、入門からでもいい理解できそうなこと、将来活用できそうなこと、それらの基礎中の基礎から始めていった。いつだって遅すぎることなんてない、かなりの時間を空虚に費やしてしまったが経済の原理、構造という概念的なレベルは万遍なく理解したような気になっていた。それが4年生も終わりに近づき、私も晴れて大学を無事卒業できることが決定していた頃のことだったのだが、浮かれ気分で友人と卒業旅行を計画していた私の人生に、学問や一般常識というレベルよりも全く次元の違う、はるかにとてつもなく重大な自分の欠陥を思い知らされることになる。

2002年春 卒業旅行

卒業旅行の行き先はタイ、プーケットであった。ひまわり証券の入社必要資格の証券外務員試験を入社前に受ける必要があり、日程の都合で先に出発している友達とは現地で落ち合う計画になった。とはいっても私には事実上、初めての海外旅行だった。しかも一人で飛行機に乗りタイまで行くのは不安もあったが同級生の彼らにできるのだから何とかなるだろう、そう思い自分で調べることはほとんど無く何度もタイへ訪れているタイフリークの友人の言われるがまま渡されたチケットと旅程を覚えこんで旅立つことになった。成田で出国手続きをして無事離陸をし、中継のシンガポール、チャンギ国際空港でトラブルは起こった。

           【英語が話せない】

乗継ぎロビーを通過してふと気付くと荷物を受け取るベルトコンベアのようなあの機械が無いのだ。確か成田の出国時には日本人のカウンター職員にシンガポールで荷物を受け取りますか。と聞かれてよくわからずに「はい」と言ってしまった記憶がある。この空港で荷物を受け取らないとタイに持っていけない。どうしたらいいんだ。そうはいってもここは異国の、しかも深夜の空港である。

人自体がまばらで日本人は全くおらず、当然のことながらいるのは少数の外国人スタッフだけであった。私は考えてみた、この状況を英語でどう説明すればよいのかを。こんな状況になるとは想定していなかった。結構な間考えていたのだが、自力で解決するのは無理だと思った。そうだ、シンガポールは国際的な空港だから日本人の職員が1人くらいいるだろう。私は内心祈るような気持ちで、生まれて初めて話す英語を Do you know who speak Japanese? と、正確な文法どおりに、通りがかった現地のスタッフに発した。もの凄く情けない質問だが躊躇している場合じゃない、それで通じると思っていた。

しかし相手は明らかに私が何を言っているか理解できないような顔をし、「悪いが力に慣れない」というような素振りで早々に立ち去ってしまった。私にはそれ以上尋ねる言葉を知らなかった、さらに相手を呼び止める術も知らなかった。笑い話だよ、なんだこの有様は。英語が話せない、そういえば英語なんか話したこと無い、一体どうなっているんだ。

真夜中の空港でパニックになりつつ自分の無力さに驚愕しながらも見渡す限り無人のフロアで、人影を求めてさ迷い続けた。不甲斐なさの境地だった、情けなくて涙が出てきそうになった。正直、baggage という単語すら当時は知らなかった。何て言えばいいんだ、恐らくここには日本人はいないだろう、ましてや深夜2~3時の空港でこれだけ人がいないのだから恥も外聞も捨ててなんでもいいから英語で伝えなければならない。そうしなければ荷物を紛失したままの非常事態に陥る。

焦りは頂点に達していたがようやく職員らしき人物を見つけ、ゲートで見張りをしているような一見して権限を持っていそうな女性の外国人スタッフに駆け寄り、身振り手振りで事情を説明した。相変わらず口からは単語しか出ない。始め相手は私が何を言っているのか分からなかっただろう、しかし私の困窮した形相に、親身に聞いてくれ持っていたボーディングパスを見ながら、付いて来いと言われ空港の奥地へ入って行き、たどり着いた倉庫で自分の荷物と対面することが出来た。荷物を目にした時は本当に助かったと思った。嬉しくて心の底から感謝したかったのだが、センキューベリーマッチを繰り返すくらいしか私には出来なかった。

この一件は私にとって今までの英語教育の理不尽さを愕然と思い知らされる出来事であった。後にこの旅行では「水をください」が通じないという経験もすることになる。自らの英会話のレベルに筆談をした方が早いのではないだろうかと思ったくらいだ。大学までを含めて10年間、英語は勉強してきた。どちらかといえば得意なほうではあった。なのに日常会話すら通じないし、相手が言っていることもほとんど理解できない。英語を勉強してきたこの10年は一体なんだったのか。口からアルファベットのスペルが出てきてそれを見ることができればわかるのだろう。だが、そんなことはあり得ない。耳から入ってくる英語は聞いたこともない音だった。

       【タイの素晴らしさに感涙 国際人を目標とする】

空港で一夜を明かし翌朝になりまたまた英語力の無さを痛感した。シンガポールからプーケット行きの小型機に乗る際に、手続きが分からずに片言で空港職員に尋ねると、慌てた女性職員はとっさに私の手を引き突然走り出した。その間際に you are too late! と言われたのは聞き取ることができたが、その意味はフライトに乗り遅れるかもしれないことと察し、彼女と一緒に青ざめながらも全力で走る心中は度重なる自らの失態にまたしても愛想が尽きそうな気分であった。

母国で十数年の義務教育と高等教育を受けてきたにも関わらず異国においてはまるで赤子になったかと思うほど、日常的な会話、行動すらままならない。なんとか無事に小型飛行機に乗りこんだ私は、そこでごく当たり前の光景であるはずの、周りが全員外国人で様々な人種、肌の色の各国の異邦人たちの中に囲まれている非日常的な空間に衝撃を受けた。確かにそこには“海外”が存在していたのである。

海外旅行の“海外”とは単なる行き先であって、旅行前に想像していた喜怒哀楽のような情緒的に発生する感情よりも、全く異なる精神的に深い驚異的ともいえる感動を受けてしまったのだ。まさに未知の世界との遭遇を体験し、見るもの全てが初めての経験で興奮と陶酔がごちゃ混ぜになった何とも説明するのが困難な、そんな感覚であった。

着陸前、眼下に広がるプーケットの無数の小島と照りつける太陽に反射された煌びやかなエメラルドグリーンの海々に大興奮したことを昨日のように思い出す。未だかつて見たことの無い、いや、写真や電波を通じて存在だけは知っているその漠然とした既知の情景ではなく、本物の生きた美しさが広がっていた。初めて目にするあまりの美しい景色にテンションは上がり、隣のシートに座っていた欧米系の若いカップルに正しい英語かも分からず声をかけたのだがほとんど無視された、だが旅の恥は掻き捨てとばかりに意に介さず、高揚感は最高潮に達したまま空港に降り立った。

思えばゲートを出てこの地タイのプーケットに上陸した時、私の第二の人生の狼煙が上がったといっても過言ではないだろう。目に映る全てが初めてで新しい、奇妙で、理解不能。でも滑稽で面白い。人、物体、風習、システム、日常、生活行動。通り過ぎてしまうシーンの一片々を最後まで見納めることができないことがもったいないと思うほど心を奪われた。

悲惨な姿で物乞いをしている現地人を見てショックを受けたり、それとは対照的に散財している欧米や日本人観光客のコントラスト。それだけではない、世界的な貧富の差を歴然と思い、なぜ彼らはこれだけの観光資源を有していながら経済レベルが低いのだろうと真剣に考えたりもした。ただ、正直にいうと日本では一般人である自分が日本から来ているだけで小金持ちになったような、現地の人からちやほや持てはやされるのも悪い気はしないし、初めて日本人が世界の中でどういった民族であり、国家であるのかを実感した。日本という国籍を持っているだけなのに自分はとても恵まれているのだなと。

そしてその日のうちに有名なリゾート地のパトンビーチに行った。まるで映画の中に入り込んだ気分だった。まさに「楽園」だった。ネガティブなことなんて一つも無い、世の中にこれほどまでに素晴らしい土地があったなんて信じられないと感嘆したものだった。

この時の感動は人生で一番のものとなった。後にも先にも無い、衝撃の体験だった。それと同時に、いままで人生を歩んできた自分の世界がいかに狭小で、限られた見聞での価値観だったかを思い知らされた。22年間、国際感覚とは無縁で育ち、世界を知らずに生きてきた自分の背景からくる感動であるという複雑な心境であった。いつだったか、とある授業で優等生かぶれの学生が先生に向かって休暇を使いロンドンに行ってきたというような発言をしたことがあった。そいつを横目に私は自分には関係ない次元の話で、自慢げに語るその姿に劣等感と不快感を感じていたほどだった。そんな自分が海外に出てみると英語も話せない、国際的概念も無い完全なる井の中の蛙状態だった。時には何かに一生懸命になることもあったかもしれないが、これまで日本で漫然と経過した時間の中では一体何のために生きていたのか。帰国したら、哲学にも似た微かな苦悩を背負うだろうとさえ覚悟した。それだけ取り返しのつかない過去の時間を考えると心にぽっかり穴が空いた感覚を覚えたことも事実だった。

現実的で、資本主義の権化のような唯物史観をしていた私には備わっていない、なんとも形容しがたい熱烈な感覚がこの卒業旅行体験で芽生えることになったと思う。感情の起伏が無く、どちらかといえば冷淡でクールな人間であると認めていたが、潜在的には実はとても感受性の強い人間だったのであろう若い私には刺激があまりにも強すぎた。日本に帰国する前、伝統的タクシー“トゥクトゥク”に乗り、感慨にふけりながら黄昏の町並みを見つめていると、あらゆる思いがこみ上げてきて涙が止まらなかった。単なる旅行がこれほどまでにも心揺さぶるものなのかと驚き、関心し、貴重な思い出とこれからの問題意識を持つことができたことに学生生活最後とはいえこの機会を得られて本当に幸運だと思った。計らずもアルバイトやくだらない学校の授業に出るよりもはるかに尊い人生経験になった、誘ってくれた友人には今でも感謝している。

帰国してからも日常には空虚感が漂い、あの夢のような幻のような強烈な体験が一時も脳裏から離れることはなかった。「また行きたい」と熱望し、そして海外には未だ見ぬ素晴らしい世界が存在しているのだから残りの人生を通して出来るだけ触れてみたいという一途な思いを焦がしていた。

できることなら仕事を通じて国際的に活躍できるような人材になれはしないだろうか、もちろん相応のスキルが必要になることは承知だがもしそのような立場になれるならどれだけ幸せだろうか。私は自らの体験で国際人への憧れを人生の目標のように考えるようになっていた。私がこれから就職する金融業界も上り詰めれば世界を股にかけて飛び回る優秀なビジネスマンになることができるかもしれない、人一倍働いて出世し、いつかはウォールストリートやシティなどで絶対に仕事をするんだという野心を胸に秘めながら、まもなく迎えるひまわり証券の入社を待ち構えていた。